ジョイス・チング「まめやかな娘」(翻訳・解説:紅坂紫) | VG+ (バゴプラ)

ジョイス・チング「まめやかな娘」(翻訳・解説:紅坂紫)

カバーデザイン 浅野春美

先行公開日:2021.7.22 一般公開日:2021.8.28

ジョイス・チング「まめやかな娘」
原題:Dutiful Daughter
翻訳・解説:紅坂紫

彼女は聞き分けのいい中国人の娘だった。父親ののぞみに従い、自分のことよりも父親のもとめることを重んじていた。父親に自らを、そしてその成果を誇りに思ってほしかった。微笑みかけてもらいたかった。褒めてほしかったのだ。

けれども彼は忙しく、いつも大学の温室で仕事に没頭していた。彼は新種の植物と分類法を愛する有名な植物学者だった。休む間もなく研究をつづけ、蘭とヘリコニアに頭をうずめながら様々な植物ゲノムを分類しているところを、彼女はことあるごとに見ていたのだった。

彼女はどんなに父親に振り向いてほしかったことだろう。バレエに秀でていた彼女は七歳ですでに習熟し、見事なピアノ演奏で世界中の聴衆をおどろかせていた。十二歳で微生物学を研究しようと一流の大学に入学した。若くしてとても才能豊かだったが、父親はいつも忙しすぎて彼女の傍にいてやることができなかった。

二十歳になったとき、父親がおどろき感激するようなことをしようと心に決めた。これまでに得た知識とその天才的な頭脳によって、それが無謀な計画であることはわかっていた。けれども、彼女の人生にはもう父親しか残されていなかった。母親はとうの昔に亡くなっていた。親友はいない。多くの人がその知性に引け目を感じていたからだ。彼氏も恋人もいなかった。よく言っても地味で無個性な女性だった。父親だけが彼女の慰めだったのだ。

この計画が実を結ぶまでには何年もの時間を要し、全てはまったくの秘密裏に行われた。彼女は研究室で熱心に働き、自らの人生を変えていった。彼女自身にもまた変化はおとずれていた。最初はゆっくりとした、まだ肉眼ではわからないほどの些細な変化だった。父にとって貴重な休息の時間である週末に会うときも、決して計画を気づかれないようにした。サプライズにしたかったのだ。

実際にからだに変化がおとずれたのは二十八歳の時だった。家に帰ると激しい痙攣と嘔吐に襲われるということが幾度もあった。自分がほんとうに変わっていくのを実感し、この時ばかりは自らの正気を疑い、変わっていくからだが心配になった。それでも父親のためにしていることなのだと自分に言い聞かせていた。彼女は部屋に閉じこもり、痛みと吐き気の波を我慢強く乗り切った。彼女は独身の一人暮らしで、家にいれば誰にも知られずに済んだ。気分のいい日には主に野菜や食用の種をむさぼるように食べた。雨をそのまま飲んだ。不幸にも彼女の変化を目の当たりにした近所の人々は、ショックを受け、彼女を警戒した。そして、一人また一人と引っ越していってしまったのだった。そうして彼女の家がただひとつ、取り残された。

彼女は父に、三十歳の誕生日の招待状を送った。自分にとっての節目であり、彼にとっての節目でもある。そんな日のための招待状を。

***

父親が受け取ったのは、金色のエンボス加工が施されたシンプルな招待状だった。手書きの文字は娘のものだ。落ち着いて気品のある字だが、まるでペンを制御できていないかのような奇妙なとげとげしさがあった。彼は顔をしかめた。彼女は仕事が忙しいと言うばかりで、何ヶ月も会おうとしなかったのだ。

午後三時、彼は娘の家に現れた。太陽はまばゆく輝いている。美しい夏の日だった。彼は車から降りて、通りが薄気味悪いほど静かであることに気づいた。彼の靴音はその耳に物々しいほどにおおきく響いた。彼女はゴースト・タウンに住んでいたのだ。

彼はいらだたしげにドアをノックした。大事な会議のため、温室に戻らなければならない。

だが返事はない。もう一度ノックをしてみるが気配はない。不安で胃が痛む。彼女の様子は確かにおかしかったのだ。彼は、家ととなりあった庭へ向かうことにする。そこで彼女は植物に水をやっているかもしれない。花や植物のかぎ慣れた香りがしてくる。彼を迎えたのは、息を吞むような光景だった。

そして、衝撃と恐怖で背筋にふるえが走った。

確かに彼女はそこにいた。金色の光をあびて、庭の真ん中に立っている。彼はいまさらながらに、彼女が彼女なりに美しかったのだと気がついた。

だが彼女はいったいなにをしたというのだろう?

彼女は穏やかに揺れていて、その微笑みは緑の葉のゆるやかな曲線をえがいている。彼女は服を着るという考えをずっと前に捨ててなにも身に着けていなかった。だが緑の服を着ていた。緑の葉とつたがからだに巻き付き、つるが手脚からぶら下がっている。肌はすっかり樹皮のような焦茶色になっている。彼女の髪は、なんと、編み込まれた太く茶色がかった緑色の根になって肩に落ちている。その編み込まれた根には、蘭の赤い花が咲いていて、蜜を集めるミツバチが羽音を鳴らして飛んでいる。目は琥珀色で、虹彩も白濁もない。顔は葉でできた仮面でこれといった特徴に欠けている。口があるはずの場所には、切れ目があるだけだった。

彼女の手——今となっては枝だが——は外に伸びていて、まるで踊っているかのようだった。バレエ、という考えが彼の頭にふと浮かんだ。彼女の指先から垂れた桃色の繊細な器のようなものは、緑色のみずみずしい茎に付着していた。よく見ると、その器はなにかの花びらだった。蓮の花に似ている。彼女は指先から花を育てていたのか、と彼は息を呑み、木の精に変わってしまった娘から目が離せなかった。

彼女の育てた花の周りにはハチドリが飛んでいて甘い蜜を吸い、アクセサリーの宝石のように輝いていた。そして、彼女のからだから放たれる樹木のような甘い香りにも気がついた。

なんてことだ。彼女はなにをしてしまったんだ?

彼女はかすかにからだを動かして振り返り、目の前に立っている父親を見る。彼の目は衝撃でおおきく見開かれていた。彼女はまた微笑む。彼はそれを木の葉のような流し目だと思った。彼女の足は、踏み出すとちゅうちゅうと音を立てた。彼は反射的に後ずさりをした。彼女は不思議そうに首をかしげる。

「サプラーイズ!」彼女は言った、あるいは言おうとした。彼に聞こえたのは葉のざわめきと、彼女の唇からもれる穏やかな風のようなヒューヒューという音だけだった。

「どうして、アラーナ、どうしてなんだ?」半ばすすり泣きながら、半ばうめきながら、彼はやっと声を出した。どうしてだって? それは馬鹿げた問いだと彼の心の理性的な部分がきっぱりと言い放つ。なぜなら、彼女はもう人間ではないのだから。

ああ、それはほんとうに簡単な問いだったのに! 彼女が楽しそうに笑うとハチドリたちは必死になって飛び散り、彼女の笑い声で花鉢が揺れ、ねばりけのある金色の蜜をこぼした。笑い声は葉っぱのざわめきのような、梢と梢がぶつかり合うような柔らかな音だった。

「お父さんにこれを見てもらいたかったの」

彼女はそう言った。あるいは、そう言ったように思った。「これがお父さんへのプレゼントよ!」

彼女の木でできた手脚がきしむ音と樹液の多い喉からのかすれた音しか、彼にはもう届かなかった。

 

 

 

 

※「まめやかな娘」はKanstellation Magazineに掲載された英語の原作小説「Dutiful Daughter」を紅坂紫さんが日本語訳した作品です。

チャイニーズ・ディアスポラと『まめやかな娘』 紅坂紫

今回拙訳で紹介した短編『まめやかな娘』(原題 “Dutiful Daughter”) “She was a dutiful Chinese daughter,” という一節で始まる。主人公アラーナが華人であることを強く読者に印象づける、特徴的な一節だ。この一節は、若く優秀な研究者アラーナと父との物語に、どのような奥行きをもたらすだろうか。

中国大陸・香港・台湾・マカオ以外の国や地域に移住・居住している中国国籍を持つ漢民族、華僑。これに対して華人(しばしば広義の華僑)はすでに現地国籍を取得した漢民族を指し、そのおおくが二世・三世華僑である。華僑・華人は2017年当時、世界各地に約6000万人散在していたと言われている。華僑・華人はその移民の歴史から現在の社会生活、文化に至るまで、非常に多様性を持った存在だ。

近年、この華僑・華人たちを、「中国系ディアスポラ(チャイニーズ・ディアスポラ)」として捉えようという動きがある。歴史もアイデンティティも、移住先での暮らしも全く異なる華僑・華人たちを、多様な存在として考えるというのがその意図だ。ディアスポラとは古代ギリシャ語で「分散する」を意味する「ディア(dia)」と「種をまく」を意味する「スピロ(spero)」が合成され「離散」を意味する単語だが、世界に点在するかれらが各地で持つ民族集団としての特徴、歴史的、政治的な背景、空間に対する柔軟性に富んだネットワークなどは、統治者や国家を中心とした歴史認識からとりこぼされてきた個人の存在を教えてくれる。

『まめやかな娘』の作者、Joyce Chngは、中華系シンガポール人のSFYA、アーバン・ファンタジー作家である。マレー半島の先端に位置する多民族都市国家シンガポールはその総人口4026209人のうち、中華系が2993708人(約74%)で最も多い。歴史的にも、1931年時点で、今とほぼ同じ75%が中国系であり、建国から現状の国家制度まで大きな存在感を示している。そこで生まれ育ったChngは、人狼をめぐるアーバン・ファンタジー“Wolf At The Door”やノンバイナリーの中国人が主人公であるスペースオペラ“Water Into Wine”をはじめとして、しばしばその作品に華僑やシンガポールを登場させる。

シンガポールにおける華僑・華人の歴史についても触れておく。19世紀初頭からシンガポールを統治していたイギリスが、現地民であるマレー人を土地所有と公務員の職において優遇した。そのような経緯が、シンガポールにおける華僑・華人のなかでビジネスをする人が多かった要因の一つだ。資源の少ない小国が生き残りをかけてエリート主義や多人種主義で成長してきたという歴史も、背景にはあるのかもしれない。

Chng自身のアイデンティティがふかく影響を及ぼしている短編『まめやかな娘』。その背景を知ることは、この短編を幾重にも楽しむ一助となるだろう。

 

紅坂紫

翻訳者プロフィール

2001年生まれ。小説家、詩人、翻訳家、エッセイスト。New World WritingThe Wondrous Realを始め海外文芸誌に作品の英訳が多数掲載(翻訳はいずれもToshiya Kamei)。2021年、『万象: アジアSFアンソロジー』に短編を掲載。

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ジョイス・チング

シンガポール生まれ。主にサイエンス・フィクションとヤング・アダルトを執筆している。Crossed Genres、The Apex Book of World SF II、We See A Different Frontier、Cranky Ladies of History、Accessing The Futureなどに作品を掲載。スチームパンクや変身/変容の物語が好き。

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