佐々木倫「風の鳴る島」 | VG+ (バゴプラ)

佐々木倫「風の鳴る島」

カバーデザイン 浅野春美

先行公開日:2021.9.11 一般公開日:2021.10.23

佐々木倫「風の鳴る島」
4,920字

高尾君のテラリウムには雨が降る。水たまりから蒸気が湧き立ち、たちまちガラスの鉢の上部にあつまってきて、雲になって雨を降らす。

「高尾君だけ、ずるい」

私も同じものがほしかった。高尾君と同じがよかった。

「なんか、島らしい」

「島って?」

「この金魚鉢」

「なに言ってるの?」

答えになっていなかった。どうしてまじめにとりあってもくれないのだろうか。私は、もういい! と吐き捨てて、高尾君家の裏門から通りに飛び出した。

通りに出た瞬間、しまった、と思った。普段正門から出入りしているから、裏門から道に出たのは初めてだ。すこし不安だったけど、何でもないふりをして歩き出す。細い路地はいくつもの突き当りを隠し持っていて歩きにくい。疲れから足が痛く、繰り返される風景に不安が高まる。景色もかすんで見えるし、焦り始めていた。見覚えのある突き当りに阻まれて、引き返そうと振り返ると、

来たはずの道が消えている。

道だったはずのところに壁がある。触ってみると、湿った感触がした。風化したコンクリート塀から飛び出した貝が掌を刺激する。尖っていて痛い。鼻をつく海の匂い。海の? 内陸の町で、海の匂い?

不意に強いめまいがする。方向感覚が失われる。気が遠くなっていく。焦点が合わない。立っていられない。

「大丈夫?」

聞き慣れた声がして顔を上げる。開けた明るい空間があって、真ん中に高尾君が胡坐をかいている。高尾君のそばには炉があって、赤い炭が火を吐いている。

高尾君は深い海を煮詰めたみたいな、透明の青い棒を手にしていた。口元から怪しげな呪文がぽろぽろと零れ落ちていく。囲炉裏の灰の中から明々したマグマが湧いてくる。高尾君がどろどろのマグマをかき混ぜる。右に三回、左に三回。最後に大きく右回りに三回。マグマから煙が出ている。表面が黒く固まり始めている。

「島」

しま、と高尾君は言った。

「東雲さんにあげるね」

高尾君は手にしていた棒でマグマを掬い取り、赤々と燃える炭火の中に棒ごと突っ込んでは、回しながら吹く。赤いどろどろは風船のように膨らんで、高尾君の動きに合わせて形を変え、ひろがり、へしゃげて、小さなガラスの鉢になった。高尾君は冷めて透明になったガラスの鉢に、海の砂を注いでいく。青い棒で砂をかき混ぜると、透明な水が滾々と湧き上がってくるのだった。小さな魚の影が水の向こうに透けている。

「名前は?」

「え……」

「この島の、名前を教えて」

高尾君が私の目を覗き込んでくる。怖いような気がする。

島、島、島。

「かざなとう」

「カザナ?」

「風が鳴る島」

うん。と高尾君はうなずいた。その口元は少し笑っていた。

「風が鳴るの。強い浜風が砂丘を形作っている。風が強い日はその音がまるで、話し声みたいに聞こえるんだって。怒られてるみたいに感じる人もいれば、呼ばれているって聞こえる人も、歌が聞こえる、一緒に踊ろうって聞こえる人もいる。島にはウサギや猫が住んでいるけど、蛇はいないの。蛇が嫌いな神様が住んでいるから。嵐の日には決まって誰かが島に流れ着く。まるで誰かに呼ばれているみたいに」

唇が勝手に動く。自分の体ではないみたいに言葉が溢れてくる。

そうか、と高尾君は満足そうに息を吐いて、いい島だ。と言った。君たちはいつか、嵐の夜にこの島の砂を踏みしめるだろう。それまで大事にするんだよ。君がこの島の守り神だ。

それ以降のことをあまり思い出せない。気がつくと私は透明な鉢を抱えて三叉路の真ん中に立ち尽くしている。慌てて歩き出す。頭ははっきりしないけど、足が自分の帰る方向を知っている。一度も通ったことのない道をすらすらと歩いていけば、家の前だ。鉢からは海の水が滾々と湧き出ている。ほんのりとぬるい、塩の味のする透明な水だった。

魚の影を数えながら、私は母が帰ってくるのをじっと待っている。「電気もつけずにどうしたの?」仕事から帰ってきた母が驚く。「島を産んだよ」母を見上げると、困ったような、怖がるような顔で私を見ていた。

翌朝学校へ行くと、高尾君はいつものぼーっとした顔であくびをしている。ねえ、昨日の、あの鉢のことなんだけど、と囁くと、怪訝そうに私を見るばかりだった。それから私たちが一緒に帰ることはなくなった。自分たちの間に流れている空気が昔とは別の色合いに変化していっている。色はほんとはなくて透明なのに、他の人がピンクとかブルーとか呼ぶので、空気は自分に色があるのだと信じたがってしまっていて、私たちも空気の自意識を尊重して距離を保つようになった。次第に私たちは深刻な話を共有しなくなる。島のことを話せる相手がいなくなる。私は自分のつけた島の名前をひっそりと胸の中で温め続け、現実に孵化させる孵卵器のような気持ちで日々を過ごしていた。あの行き止まりにも、三叉路にも、いくら探しても二度とたどり着けなかった。

九月の終わりのことだった。台風が予想進路をはずれてこっちに向かってきているらしい。雨が降る前に下校することになった。集団下校で、久々に高尾君が私の隣にやってくる。台風だね、と言うと、高尾君は黙ってうなずいた。今日はなぜか普通に話せるような気がする。島の名前だって聞けるような気がする。

「高尾君の島は……なんて名前なの」

「ひるがお」

「どんな島?」

「起伏がなくて、穏やかで、静かな島だよ。海鳥がたくさん住んでいて、天敵の蛇がいないから、みんなのんきに暮らしている。蛇が嫌いな神様が作った島だからね」

「私の島もそうだよ。蛇がいないの。きっと双子の島なんだ」

「そうなんだ」

高尾君は驚いた顔をした。まるで私の島の話なんて初めて聞いたという顔だった。

あのとき私に島を分けてくれた高尾君は、私が知っている高尾君とは別人なのかもしれないな。妙にしゃっきりしていたし、いつもよりはきはき喋って、なんだか偉そうだったし。そもそも普通、小学生は島なんか作ったりしないし、熱したガラスを引き延ばして鉢を作ったりもしない。

いつの間にか雨が降り出している。ひとり、またひとりと傘をさす。生ぬるい風が吹いたかと思うと、急に冷たい空気が吹き下ろしてくる、妙な天気だった。気がつくと私たちはふたりぼっちになっている。雨の音が方向感覚を遮断する。冷たくてぬるい、湿った空気が私たちの間を吹き抜ける。

「高尾君はあの金魚鉢どうしたの?」

「もらった」

「どろどろのガラスをこねて?」

高尾君が目を丸くして私を見た。

「よく知ってるね」

「うん。私も同じ人に遭ったよ、ガラスの鉢をもらった」

「そっか、東雲さんも」

雨が激しさを増した。どんどんひどくなる。息苦しいほどの水を含んだ空気。アスファルトの地面には濁った水が流れていて川のようだ。靴下も靴もびしゃびしゃだった。

「どこかで雨宿りしたほうがよくない?」

高尾君が言う。指さした方角が光って見えた。粗末なバラックが建っている。窓から明かりが漏れている。中に誰かいるのだ。

「あそこに入れてもらおう」

先を争うように駆け出した。アルミのドアに手をかける。ひとりでに開いたのかと錯覚するほど、軽い。

「よく来たね」

しわがれた声だった。老人が湯気の立つケトルとカップを前に立っていた。

紅茶を飲みなさい。温まるからね。老人は言って、私たちを椅子に座らせた。質素な木製のテーブルとイス。四人座れるスペースがあるけど、普段は人が訪れることもないのかもしれない。座面にはうっすらと埃がつもっていた。

「ひどい嵐だ。迎えの船はしばらくこないだろう」

船? 高尾君と顔を見合わせる。勧められるがままに紅茶をすすると、どこか懐かしい土地の匂いがする。私は自分が聞くべきことをすんなりと思い出した。

「この島の住み心地はどうですか?」

「ああ、ああ、最高だよ」

老人はニカッと笑ってみせた。前歯が欠けている。人懐っこい笑顔だった。誰かにこの島の話をしたくてたまらないという風情だった。嬉しさがこみあげてくる。毎日鉢の手入れをした甲斐があった。だって、ここは私の島なのだから。

老人は興奮気味に語りだす。晴れた日は砂浜に出てヨットを出すんだ。このあたりの海は透明でとても美しくてね。島には猫や、ウサギや、恐ろしい毒蜘蛛もいるけれども、どういうわけか蛇だけは見たことがない。それを聞いて高尾君は、何かを理解したような眼で私を見た。

老人はこの島で出会った人たちのことを語りだす。私はそれを聞きながらだんだんと老人の記憶に飲み込まれていく。若いころわたしは船乗りだった。嵐の夜に乗っていた船が海賊に襲われた。そのまま海賊たちの下働きとしてこき使われていた。あるとき見習いコックの青年と、救命ボートを使って船から逃げ出し、風鳴島にたどり着いた。月の出ている夜だった。

二人で小屋を建てた。暮らしは穏やかだったけど、時には喧嘩して、どちらかが小屋を飛び出すこともあった。ふたりはやがて島の端と端に別々の小屋を建て、今ではお互いを行き来して暮らしている。天気がいい日は砂浜でウクレレを弾き、歌う。あいつの歌は絶品なんだ。と老人は言う。

「この島の風は、あなたになんて語り掛けますか」

我慢できずに、私は尋ねた。老人は微笑む。答えはない。だけど私はとても満ち足りた気持ちで、老人が爪弾くウクレレを聴いている。高尾君が鼻歌を歌う。老人が歌いだす。それは私たちの知らない歌で、知らない言葉だった。私はいてもたってもいられず、小屋を飛び出す。目の前には砂浜が広がっている。耳元で風が唸っていた。それは美しい歌だった。渦巻く波が、風が作り出した砂浜の文様が、濁った海の水が、奏でる美しい歌だった。南洋の果樹が風に揺られてしなっている。野菜畑の中に小型の獣が入り込んでいた。「こら!」柵の外から老人が鉈を振り上げる。動物は緩慢な動作で茂みに駆けていく。「油断も隙もない」老人がひとりごちる。目が合う。雨合羽のフードの奥に、への字に曲がった口元が覗いて。「素敵な畑ですね!」風に負けないように叫んだ。こちらを向いた弾みにフードが落ちる。子供のような笑顔が覗く。真っ白な歯はひとつも欠けていない。

「ほら」老人がこちらにトウモロコシを投げて寄越した。ずっしりと重い。老人がトウモロコシの皮をめくってかじりつく。私もマネをした。青臭くて、みずみずしくて、甘かった。

「いい島だろう」

「うん。でももう、帰らなきゃ」

「もう少し行くと船着き場がある。船で近くの島と行き来できるんだ」

「船が来るの?」

老人はうなずく。

「二人乗りの小さい船だがな」

不意に、老人たちをここに置き去りにするのが悪いことに思えてくる。罪悪感に胸がうずく。

「おじいちゃんたちは帰らないの?」 老人は黙って首を振った。

「ふたりぼっちで寂しくない?」

私は尋ねた。老人は笑った。快活な笑いだった。

「寂しいと思うなら帰りな。そのほうがいい。もしお嬢ちゃんたちが大人になって、何もかも嫌になって、心残りがなにもなくなったら、そのときはまたここに来ればいい。俺らの骨でも拾ってくれよ」

私はなんて答えたらいいかわからなかったので、老人に手を振って別れた。お土産によく熟れたトマトを三つもらった。。

桟橋があるというほうに歩いていく。風の音がだんだん静かになる。雨が一段と弱くなった。砂浜の向こう側から高尾君が歩いてくる。ふたりで桟橋を見つける。

私たちは二人で並んで船が来るのを待った。「私の島、どうだった?」

高尾君はにこっと笑ってこっちを見る。「いいね」

船を待つ間、高尾君にトマトを一つあげた。やがて船が一艘近づいてくる。粗末な木造の船だ。女がひとり乗っている。

「どこまで?」

女が聞いた。

「家まで」

女はうなずく。私たちは船に乗り込む。余ったトマトを女にあげた。船はゆっくりと進んでいく。雲の切れ間から星が覗いている。船がふわりと浮き上がり、星空を進んでいく。

島を振り返る。誰かが手を振っているのではないかと思った。だけど、誰もいなかった。いつの間にか高尾君は寝息を立てている。私も眠くなる。うつらうつらと船を漕ぐ。星がちかちかと光っている。なぜだかもう、二度とあの島には戻れないのではないかと思う。現に私はもう、自分がつけた島の名前を忘れかけている。

 

 

 

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佐々木倫

小説を書く、宇宙を旅するキリン。2020年には第一回かぐやSFコンテストで「Moon Face」が最終候補作品に選出。第二回ブンゲイファイトクラブで「量産型魔法少女」が本選出場。阿瀬みちというペンネームでも執筆活動をしており、2021年には「みずまんじゅうの星」が、日本SF作家クラブ主催の「日本SF作家クラブの小さな小説コンテスト」で1,000本を超える応募作品の中から40本の二次選考通過作品に選ばれた。モチーフやテーマへの眼差しが魅力の一つ。神楽坂いづみとユニットを組んで、合同誌『融』を作成、ペンギン文庫にて販売している。共著の人魚アンソロジー『海界(うなさか)〜十二の海域とそのあわいに漂う〜』は好評発売中。

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