相川英輔「愛の証明」 | VG+ (バゴプラ)

相川英輔「愛の証明」

カバーデザイン 梅野克晃

先行公開日:2022.10.22 一般公開日:2022.12.3

相川英輔「愛の証明」
9,941字

長らく未解明であった定理が相次いで証明され、この三十年で科学は目覚ましく発達した。石油燃料に大きく依存していたエネルギー問題が解決され、魂の正体も明らかになった。人間の意識は素粒子よりも小さい物質〈マラペリ〉の集合体であり、生存中は脳内に収まっているものの、肉体の消失とともにバラバラに拡散してしまう。幽霊と呼ばれる存在は、マラペリの拡散が抑えられ一定期間同じ場所に留まっている状態のことだという。生前の想いが強いほどマラペリの拡散は抑えられる傾向にあるものの、その存在は想いが伝わるごく一部の人間にしか見えないし、想いが伝わればその存在も消滅する。原始人や大昔の幽霊が見当たらない理由はそれだ。

人類はガンも克服し、地震の予知にも成功した。なにより近年最も人類を歓喜させたのはワームホールの発見だ。

冥王星のすぐ傍にある小型のワームホールは、有史以前から変わらずそこにあった。幽霊と同じで、人類が正しく認知できていなかっただけだ。ドアがあるわけではないし、トンネル状になっているわけでもない。視覚的には周囲の宇宙空間と何も変わらない。偶然、無人探査機がそこで消失したことで、ようやく人類がその存在に気づいたのだ。

波が寄せては返す。地球が誕生してから何回くらい繰り返されているのだろう。兆? 景? いやもっと多くかもしれない。

浜辺に座る健人けんとに背後からそっと近づいた。

亜里沙ありさだろう」背を向けたまま健人がそう言い当てた。

「なんだ、気づいてたの」私は少し驚く。

「気配で分かるよ」

「超能力者みたい」と笑い、彼の隣に腰をおろした。

健人は真剣な表情で海の奥を見つめ続けている。大気が極限まで澄んでいるときは本土を視認できる日があるというが、私たちが目にしたことはいまだ一度もない。

「もうすぐだな」正面を向いたまま、健人がそう言う。

「そうね」

「俺たちは選ばれるだろう」

「まだ分からないよ」

「いいや、選ばれる」と健人は断言する。

そうだ。本当は私だって確信している。三十人の〈研修生〉から選抜される四枠の中に私と健人は確実に含まれているだろう。体力テスト、知能テストともに最上位だし、閉鎖環境試験や精神負荷試験もトップグループだった。教官たちから向けられる視線も他の者たちとは明らかに違う。

「ようやくこの島から抜け出せるな」

「でも、今度は探査船に閉じ込められるんだよ」

「ここでないならどこでもいいさ。それに――」と言いかけ、彼は口をつぐんだ。

「それに?」

「……亜里沙と一緒に行けるなら、それ以上は何も望まない」健人はそう言い、頬を紅潮させた。

私は、砂浜に置いていた彼の手の甲に自分の手を重ねた。ようやく彼の表情が緩み、いつものはにかむような笑顔となった。

「この風景も見納めだ。嬉しいはずなのに、なんだか少し悲しくも感じる。不思議だな」

「里心っていうやつかな?」と私は訊く。

「どうだろう」

「じゃあ、離愁?」

「それもちょっと違う気がする」

二人とも、学んでいない感情がいくつもある。愛についてもそうだ。

私たち研修生たちはものごころつく前にこの島に連れてこられ、教官たち以外とは誰とも接触しないまま十八歳を迎えた。男子は去勢手術を、女子は避妊手術を施されているせいか、愛というのが具体的にどのようなものなのか、研修生たちは誰一人理解できていない。こうやって手と手を合わせることが愛の証明のような気がするが、正解は誰も教えてくれない。

銀河系オリオン腕内にテラフォーミングできる惑星がないことはすでに明らかになっているため、人類はワームホールの先に大きな期待を寄せている。これまで何度も無人機が送り込まれた。だが、それらはことごとく消息を絶った。進入後に圧壊したのかもしれないし、抜け出した先が想定より遥かに遠く、通信が届かないのかもしれない。いずれにせよ世界最大の関心事はいまだ謎のままだ。

有人船を送り込む計画が立案されるのは当然の流れだった。解明のためなら殉死を恐れない科学者は掃いて捨てるほどいる。だが、世界の頭脳を失うわけにはいかない。そこで登場するのが私たちだ。実験に使われるためのモルモット。本土から遠く離れた人工島で育てられ、高度な教育と身体機能の向上を目的とした訓練を休みなく受けさせられてきた。私たちには戸籍すらない。乳児院から連れてこられたと説明されているが、健人は、自分たちはゲノムベイビーなのではないかと疑っている。

これだけ科学が発達したにもかかわらず、地球は終焉を避けられない状況に追い込まれている。原始生命体を除けば八百年後に生存している生物はいないものと見込まれている。政治家や科学者たちは人類存続のために二十以上のプロジェクトを打ち出した。そのうちの一つが私たちだ。

島の南側には探査船の発射場と研究センターがあるけれど、研修生は近づくことが許されていない。それでも年に数回程度、船の発射を目にすることができる。発射場とは五キロ以上も離れているにもかかわらず、轟音が体全体を振るわせる。光の塊が圧倒的な推進力で空へと突き進んでいく。ものすごい量の白煙。いつかあれに乗る日が来るのだと信じて日々を過ごしてきた。

探査船「らん」の建造が終わったと聞いている。研修生の中から四名が選抜され、操縦士兼被験体として乗船する。私たちはそのための知識とスキルをすでに身に着けている。ほとんど情報が開示されないので真偽は不明だけれど、ワームホール内で自分たちの体を使ったさまざまな実験が課せられると噂されている。未知の宇宙線を浴びることで体に異変が生じるかもしれない。生殖機能が奪われたのは、新人類の誕生を恐れてのことかもしれない。

選ばれなかった残り二十六人のメンバーがどうなるかは知らされていない。普通に考えれば、別のプロジェクトに「転用される」と考えるのが当然だろうけれど、お役御免となって解放されるという話を耳にしたこともある。

ただ、私は外の世界にさほど興味をもてなかった。ずっとここで暮らしてきたのだ。日々の訓練はハードだけれど、食事や寝床に困ることはないし、なにより健人と一緒にいられる。本土には何千万人もの人間が暮らしているという。今さら新しい環境に適応する自信がない。人類の役に立つことだけを叩き込まれて生きてきたのだ。植えつけられた価値観だとしても、今はそれが自分の存在意義だと感じている。

健人は違う。彼は自由を切望し続けている。断片的に入る本土の情報を必死にかき集め、教官たちが持ち込む紙の雑誌を盗み見る。外の世界について語る彼の目はいつも輝いていた。

「発射して成層圏を抜けるまでは鸞の窓から地上が見えるだろう。島がどんどん小さくなっていって、海が見える。そして、本土。他の大陸だって見れるかもしれない。壮観だろうな」健人が声を弾ませる。

「でも、それじゃ見るだけだよ。実際に行けるわけじゃない」

「構わない。この島に閉じ込められたまま死ぬよりずっとマシだ」

健人の顔は晴れ晴れとしている。選ばれることを微塵も疑っていない。そんな表情を見ていると辛くなる。私は重ねた手をぎゅっと握った。

翌週、乗船者が発表された。

そこに健人の名前はなかった。

選抜されたのは杏、森名、甲斐、そして私の四名だ。健人はしばらく茫然としていたけれど、我に返ると突然暴れ出し、教官に暴力を振るった。教官のあごが砕け、メガネが吹き飛ぶ。駆けつけてきた警備員にも殴りかかった。「なんでだよ! 甲斐なんかが選ばれるなんておかしいだろ。不正だ!」と喚く健人に、警備員は容赦なく電気銃を打ち込んだ。意識を失い、床に倒れ込んだ彼が運び出されていく。

健人は一か月間の懲罰房行きとなった。私たちの出発は二週間後なので見送りさえできない。

健人が落ちるように仕組んだのは私だ。でも、まさかこんな別れになるとは思いもしなかった。目的地までは片道で四年の歳月がかかるし、ワームホールに入ればタイムダイレーションが起き、地球の時間とは数十年から数百年のずれが生じると推測されている。仮に生きて帰ってこられたとしても、地球に生きる今の世代は全員いなくなっている可能性が高い。

海辺に座り込み、一人で泣いた。波の音が繰り返される。これでよかったのだ。自分の判断は間違っていない。そう信じこもうとするけれど、どうしても涙がとまらなかった。健人とこの浜辺に座り、たわいのない会話をすることはもう二度とできないのだ。

彼との最初の記憶はいつだろう。五歳頃? いいや、もっと前だ。彼が推測したように、私たち研修生は全員ゲノムベイビーで、ゆりかごに揺られる前からずっと一緒だったのかもしれない。それでも、健人だけが最初から特別だった。他の二十八人と彼のどこが異なるのか分からない。同じものを食べ、同じことを学んでいるのに、彼一人だけが光に包まれているように映る。目を合わせると心臓がどきどきしたり、温かくなったりする。反対に、ささいな口論をするとそれだけで呼吸困難めいた息苦しさを覚えた。それは彼のほうも一緒だった。これまで習ってきた言葉の中にはそんな気持ちを適切に表すものはなかった。私たちは繰り返し話し合ったけれど、答えを見つけることはできなかった。ネットワークは遮断されていて、島内で適切な情報を得ることはできない。もどかしさから、意図的に距離を置いてみた時期もある。それでも最終的には離れることができなかった。健人が教官のロッカーから盗んだ小説には、そういった感情を愛と呼ぶのだと書かれていたけれど、真偽を確認する術はなかった。

「健人は反抗を企図しています。発射後、自動操縦を解除して本土に激突するつもりです」個室で教官にそう伝えた。彼は異常なほど本土に執着していて、命を失ってでも願いを叶えるつもりだ。鸞の操作技術について、彼が図抜けて一位だったのはそれが理由だ。そんな人間をクルーにしてはいけない。そう説明した。

もちろん嘘だ。健人は反抗なんて考えていない。彼を自由にするための方便だった。鸞は新しい監獄にしかならない。健人は懲罰房から出たら、島からの脱出に挑むはずだ。彼にはそれを成功させるだけの能力と胆力が備わっている。健人のいない日々なんて辛すぎるけれど、それでも彼に本土の地を踏んでほしかった。これが私なりの愛の証明のつもりだった。

私の嘘が発端となり、適性検査や精神分析試験の結果が再度解析され、健人を搭乗員にするのはリスクがあると判断された。

「本土ではさ、流行りの歌やファッションがすぐに変わるらしいんだ。一年前に流行したものなんて誰も見向きもしない。働いて、給料をもらって、無数にある商品の中から気に入った物を買う。それが自由経済っていうものだし、人としてあるべき生き方なんだ」彼はいつも憧れに満ちた表情でそんなことを語っていた。

正直にいえば、私はテキストに載っている歌や教官から与えられる衣類だけで十分だった。化粧やアクセサリーにも興味がない。一年前のものがすぐに古くなるなんて、せわしなさに目が回りそうだ。なぜ健人がそういったものに惹かれるのか、最後まで理解することはできなかった。それでも彼の願いが叶うよう手伝いたいと思っていた。心と頭が相反する反応を示すのは、健人に関する事象のときだけだった。

鸞に乗り込むことに恐怖は感じていない。ワームホールに入ったら死んでしまうかもしれないけれど、人類未踏の地に行けるのだ。人が溢れる本土よりもよほどワクワクする。それでも、やはり出発の前に一目でいいから健人に会いたかった。許しを請うつもりはない。その姿を目に焼きつけておきたいだけだ。奇跡的に、彼が生きている間に帰還できたとしても、きっと皺だらけの老人になっているだろう。誰かと結婚し、幸せな余生を送っているかもしれない。私のことなんてとっくに忘れているに違いない。当然、それだけの覚悟をもって彼を「売った」つもりだった。それでも、会いたさに胸が潰れそうだった。

最終訓練の間、そして隔離室に入れられる前、何度か懲罰房に忍び込もうと画策した。しかし、監視が厳しく、その機会は最後まで訪れなかった。専用バスに乗り、南の発射場に移動する。隔離室やシミュレーションルームでは、これまで会ったことのない多くのスタッフと顔合わせをさせられた。島にこれだけの人間が住んでいるとはまったく知らなかった。

昨夜から何度泣いただろう。健人と離れ離れになるなんて嫌だ。彼がいない人生なんて意味がない。土壇場で「乗るのをやめたい」と直訴したけれど、スタッフは相手にしてくれなかった。これは巨大な計画で、自分の意志など微塵も考慮されていないのだ。モルモットはモルモットらしく従順にしておけ、と責められているようだった。

ほとんど強制的に宇宙服を着せられた後、杏たちと一緒に鸞へ続く長い通路を歩いた。緊張しているのか、皆、口数が少なかった。

轟音と激しい振動。これまで遠くから眺めるだけだった探査船に乗り込んでいるのだ。だが、実感がどうしても湧かなかった。これは夢で、目が覚めたらまだ研修所のベッドに横たわっているのではないか、と思えた。顔を洗い、歯を磨き、教室で健人と朝の挨拶をするのだ。違う。これは現実で、私は宇宙空間に向かって直進している。もう引き返すことはできない。窓の外を見ると、島が小さくなっていき、本土が見えた。健人が憧れていた場所。私は目をつむり、彼がいつかあそこで暮らせることを祈った。

地球が近づいてきた。杏たち三人は泣いて喜んでいる。涙を流していないのは自分だけだ。九年を超える過酷な探査をなんとか生き延びることはできたものの、いつの頃からか心の一部は硬直し、機能しなくなっていた。鸞はまるで巨大な棺桶のようだった。私たちの旅も長かったけれど、地球上では百二十年が経過しているという。ワームホール脱出後に復旧した通信でそう知らされた。この計画を立案した科学者や政治家は誰一人生きていない。それでも後継組織は残っていた。見捨てられずに済んだことは幸いだ。着陸から身体検査まできちんとサポートしてもらえるらしい。

地球では科学技術が衰退曲線に入り、多くの技術が失われたという。深刻な土壌汚染により人類が生きられる土地も減ってきているそうだ。人々は私たちの帰還を熱狂的に待っている。〈新世界をもたらす使者〉、〈最後の希望〉。そんなふうに呼ばれていると通信で教えられた。

だが、残念ながら期待には応えられない。たしかにワームホールをくぐり抜け、千光年先の光景を目にしてきた。だが、人類が移住できるような惑星を見つけることはできなかった。私たちは「ただ遠くに行って、帰ってきただけ」だ。正式な報告書を発表したら落胆されることだろう。非難や中傷の的になるかもしれない。

出発前、人類に残されていた猶予は約八百年だったけれど、今はあと二百年もつかも疑問視されているという。きっと他のプロジェクトも失敗に終わったのだろう。だが、人類の行く末など知ったことではない。何が〈最後の希望〉だ。行くときはモルモット扱いだったくせに、今さらムシがよすぎる。

地球に戻ってからどうやって生活していくか、見通しは立っていない。帰路、土星を超えたあたりからずっと考えてきたけれど、結局何も思い浮かばなかった。おそらく数か月はさまざまな検査を受けさせられるだろう。ワームホールが人体にどういう影響を与えるのか徹底的に調べられるはずだ。でも、その後は? 研修所に戻されることはないだろう。そもそも研修所が残っているかも分からない。選ばれなかった仲間たちももう死んでいるはずだ。もちろん健人も。仮に自由の身になったとしても、時代に取り残された人間が生きていくのは容易ではないだろう。杏たち三人と共に生活すれば心強いだろうか。いや、九年以上も一緒だったのだ。これ以上は耐えられない。

大気圏を抜け、成層圏に入る。窓から見える風景はずいぶん変わっていた。植物の緑がほとんど見当たらない。状況はかなり深刻なようだ。

島の滑走路に無事着陸した。鸞は大きな故障もなく最後まで頑張ってくれた。ハッチが開けられると、スタッフと思しき面々が笑顔で迎えてくれた。

「おかえりなさい」、「よく頑張った」、「英雄だ」。彼らに先導され、専用通路を歩いていると次々と声をかけられた。絶え間ない拍手。施設の全職員が出迎えてくれているという。容姿や髪型などは昔とあまり変わっておらず、服装だけがいくらか〈未来的〉な印象だ。きっと植物繊維から衣類を作ることが困難なのだろう。

いくつか検査を受けた後、個室に移された。ベッドに横たわるとようやく一息つくことができた。私たちの帰還は本土でも大々的に報道されているらしい。人々の期待がずしりとのしかかってきて、逃げ出したい衝動に駆られる。でも、どこに? この島以外は何も知らない。それに、暮らしていたのは百二十年も前のことだ。健人と一緒だったらどんな不安だって乗り越えられるのに。彼のいない世界に意味などない。いったい何のために帰ってきたのだろう。鸞の船中で死んで、宇宙空間にマラペリが拡散されてしまったほうがよかったのかもしれない。

連日の身体検査とヒアリング。杏たちもどこか別室で同じようなことをされているらしい。スタッフたちの表情は穏やかだけれど、質問は日を追うごとに鋭くなっていった。

帰還して六日目、ようやく半日の休暇が与えられた。島内であれば自由に散策していいという。支給された服とスニーカーで外に出る。もしかしたら会えるかと思っていた杏たちの姿はなかった。きっと休日も分けられているのだろう。しばらく顔を見ないだけで、彼らの存在がどんどん希薄になっていく。長らく一緒に探査してきた仲なのに不思議なものだ。

この島はまだマシなほうだと聞かされていたが、それでも木々はずいぶん減っていた。施設を出て北に向かう。記憶に残っている風景がところどころに散見された。数十メートル後方には二名のスタッフがついてきている。見張っている事実を隠す気もないようだ。

地球から飛び立ったとき、すべてを捨てたつもりだった。でも、健人のことだけはどうしても忘れられなかった。胸の真ん中あたりにずっと居続けていて、彼のことを考えない日はなかった。裏切りは本当に正しい行為だったのだろうか。あの後、健人は島を離れることができたのだろうか。一度、スタッフに訊いてみたけれど、彼らは何も知らなかった。大昔のことなんて誰も覚えていないのだ。

研修所はぼろぼろに朽ち果てていた。窓枠はなくなり、天井も抜け落ちている。私は建物に近づき、壁を撫でた。時間の経過を嫌でも思い知らされた。辛いことや不満ばかりだったけれど、人生の大半を過ごしてきた場所には違いない。こんなふうに廃墟と化しているのを目にするのはやはり悲しかった。

何を期待してここに来たのか自分でも分からない。気持ちが沈むくらいなら見ないほうがよかったのかもしれない。気分を切り替えようと浜辺まで歩いた。

海岸線は変わっていなかった。砂を踏みしめる感触が懐かしい。波の繰り返される音も前と同じだ。変化していない事象にほっとする。ここで健人と話をするのが何よりの楽しみだった。でも、それはもう遠い遠い昔の出来事になってしまった。

波打ち際に誰かが座っていた。

まさか。

吸い寄せられるように近づくと、相手が背を向けたまま声を発した。

「亜里沙だろう。気配で分かるよ」

健人。

「おかえり」彼が立ち上がり、振り返った。

「……そんなこと、ありえない」

「ずいぶん大人になったな。でも、亜里沙は亜里沙だ」彼は昔と変わらぬ、はにかむような笑顔を見せた。

健人がいるはずがない。私は錯乱してしまったのだろうか。あるいは願望が作り出した幻覚かもしれない。

「夢でも幻でもないよ」こちらの心を見透かしたかのように彼がそう言った。

「でも、あれから百二十年が過ぎている」

「ああ、そんなに経ったのか。大変な探査だったんだろうな。無事に帰ってこれて本当によかった」

後ろを振り返ると、監視役の二人は怪訝そうな顔を浮かべていた。

「あいつらに俺の姿は見えていないよ」と彼が苦笑する。

健人の体はうっすらと透けていて、向こうの海が見える。ホログラムか何かなのだろうか。あるいは探査している間に新しい技術が開発されたのかもしれない。いずれにせよ、今ここに本物の彼がいるはずがない。そう訊ねると、彼は否定した。

「俺は今、現実に亜里沙と話しているよ」

「でも――」理解が追いつかない。

「鸞が出発する前、幽霊の正体が科学的に解明されただろう。拡散していない意識だって。強い想いがその場に留まるんだ。たしか、ここでそのことを話し合ったこともあるよな」

まさか。私は絶句する。

「亜里沙の帰りを待っていたかった。知り合いが一人もいない世界なんて悲しいだろう。自分だけでも迎えたかった。帰ってこれたら、亜里沙はきっとこの浜辺に来るって思ってた。だから、懲罰房から出された後、すぐにここで自殺したんだ。強い気持ちを持ち続けていればきっと会えると信じてた」

涸れていた涙が九年ぶりに溢れた。嗚咽を堪えるため両手で口を覆う。そんな。そんな。なんでそんな馬鹿げたことをしたのだ。私が無事に帰還できる保証なんてどこにもなかったのに、気の遠くなるような時間、彼はここでたった一人で待ち続けていたのだ。悲しみや怒りの感情がない交ぜになり、ひどく混乱する。

「教官にデタラメを吹き込んだのが亜里沙の仕業だってことはすぐに気がついた。そのことを恨んではいない。でも、一言相談してほしかった。俺は一緒に探査船に乗ることを望んでいた。当然だろう」

「……私は、健人が本土で幸せに暮らすことを願ってた」切れ切れの声でそう伝える。命を捨て、幽霊になってまで会うことなんて望んでいない。私のことなど忘れて、新しい人生を送ってほしかった。

「分かってるよ」彼の笑顔には寂しさが含まれていた。

なんていうことだろう。私の行動は健人の未来を潰し、健人の行動は私の願いを潰した。二人ともひどく不器用で、愛を証明する方法を知らなすぎたのだ。無知だ。無知で、愚かだったのだ。

健人の体が次第に薄くなっていく。

「消えないで!」私は叫び、とっさに彼の腕を掴もうとした。けれど、それは空を切った。

「もう形を留めることができなさそうだ」健人の口調は穏やかだった。

「話したいことがたくさんあるの。もっと一緒にいたい」

「無茶言うなよ」と彼は小さく笑う。

「死んだら会えるの? それなら私もすぐに死ぬ」

「あの世のことは知らない。ずっとこの浜辺にいただけだからな。もしあの世があるなら、俺は向こうでゆっくり待っておくよ」

彼の姿が景色に溶け込んでいく。九年ぶりの再会なのに、こんなに短いなんて。いや、健人は百二十年も待ち続けたのだ。それがわずか数分しか話せないなんて残酷すぎる。

「待って!」

「亜里沙は生きろ」

その言葉を最後に彼の姿はかき消えてしまった。

立っていられず、私はその場に泣き崩れた。膝と肘が砂地にめり込む。監視役の二人が駆け寄ってきて、大丈夫ですか、どうされたんですか、と肩を揺さぶる。私は彼らの手を振り払った。

「放っといて! 一人にして!」

そう怒鳴った。さまざまな感情が体内を駆け巡る。これほど辛い思いをするくらいなら、会わないほうがよかった。健人はどうして自殺なんかしたのだ。

監視役の二人が離れていく。

私たちはいつもボタンをかけ違えていて、最後まで相手の望むことを見誤っていた。それでも、互いを想う気持ちだけはしっかりと分かっていた。私は健人のことを想い続け、健人は私のことを想い続けていた。愛を証明する必要なんてどこにもなかったのだ。百二十年という長大な時間を経て、ようやくそのことが理解できた。

鸞に乗ってからというもの、こんなにも感情が乱高下したことはなかった。ワームホールに突入したときも、帰還できたときも心が大きく揺れることはなかった。健人との再会によって石のように固まっていた感情が再び動き出した。彼が棺桶から引きずり出してくれたのだ。「生きろ」という彼の言葉を胸の中で何度も反芻する。大きく息を吸うと、肺が膨らみ全身に酸素が送り込まれるのが感じられた。

生きてみよう。

長くはもたないこの世界で、島を出て生き抜いてみよう。健人の代わりに本土をこの目にするのだ。〈向こう〉で彼が待っていてくれるのであれば、何も不安はない。

私は立ち上がり、体についた砂を手で払った。いつの間にか涙はとまっていた。

波のはるか先に本土が見えた気がした。

 

 

 

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相川英輔

1977年千葉県生まれ、福岡県在住。2013年に「日曜日の翌日はいつも」で坊ちゃん文学賞の佳作を受賞。2017年に、同作が収録された短編集『ハイキング』(惑星と口笛ブックス)でデビュー。主著は「ハミングバード」(惑星と口笛ブックス) 、『ハンナのいない10月は』(河出書房新社) など。また、掌編「イン・ザ・パーク」がToshiya Kameiさんによって英訳されたことを皮切りに、「Hummingbird」(訳 Toshiya Kamei) が『samovar』に掲載されるなど、多くの短編小説が英語に翻訳されている。地方文学賞を経てインディーズの出版社でデビューし、海外でも活躍しているという異色の、そして新しい時代の文芸の雰囲気を代表するような書き手の一人だ。
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